Tiger Uppercut!〜ある秋田人の咆哮

タイガー!タイガー!アッパカーッ! 秋田の歴史、文化、グルメ、時事、そしてステキな未来を書き下ろし!
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中国見聞録 〜Hello China!


中国という国や人を考えるとき。



私たちが立脚しているところはもしかしたら
たいへんな無知誤解の渦の真っ只中なのではないか。
ということが、この数年自分の中で少しずつ大きくなってきている。

私たちはなぜか中国をナメている。
正直、かなりナメまくっている。
しかし不当にナメすぎているような気もする。
特に私たちの世代はそういう教育をなんとなくうけてきたんだろう。
もちろん教科書にはそうは書いてないけども。
なぜなんだろう。
その根拠はなんなんだろう。

日本は有史以来、中国の東の隣人として、
時には寄り添うように、時には跳ね返るように、この数千年やってきた。
私たちが今とてもナメているその中国は当然のことながら、
国土も歴史も文明も文化もスケールが大きく、
特に古代においては、世界をリードしてきた一大文明を築いてきた。


(幾多の危険をも顧みず中国に憧れた遣唐使船)

日本固有のもので中国よりも優位にあるものといえば何だろう?
それを思いつくのはなかなか簡単でない。
そのうえ現在では、
経済という数字で換算できるわかりやすい領域でさえ凌駕されようとしている。

たぶん、この人類史上レベルの偉大な国(現政権という意味ではない)を
ナメる理由はきっとひとつだ。
ただ単に、

「西洋文明の仲間入りを中国よりもほんの少し早い時期に行った」

ということだろう。
いわば、日本は中国や朝鮮よりも多少アメリカっぽいのだ。
というところが主なところなんだと思う。
だって我々は中国人のことをナメているくせに、
関羽や曹操などの昔の中国人に対してはとても尊敬の念を抱くのだ。


(必死で欧化に励んだ明治・大正期)


(それを思想的にリードした福沢翁)


私は西洋文明もアメリカも大好きなので、
それはそれでもっともなことだとも思うんだけども、
好きとか嫌いとかの感情だけでは何かを理解するのは難しい。

「現状の現実を理解する」

ということが大切なことだろう。
そのために歴史を知り、地理を知り、人を知り、現地に行って触れる、
という作業を行う。
それは別に「仲良くする」ということが大前提の作業ではない。
ただ、対象について「きちんと理解する」ということなのだ。
まずはすべてそこからだろう。
そういった境地に自分もなることができたら、
そうすると見えてくるものは、
きっと自分の成長にとってかなり魅力的な領域なはず。
という理由からここのところずーーーっと、

「中国に行ってみたい」

と願っていて、
そのために国際交流関係、中国関連のコミュニティにも参加し、
異国の友人を数多くつくり、韓国語を習い、英語を習い、
あげくはアメリカ人を社員として採用するなんて試みをし続けてきたんだけども、
2010年初夏、日本中が本田やなんだでワールドカップ熱に冒されている頃、
ようやくその機会はやってきた。
ということで、いざ未踏の大陸へ!




待ってろよ関羽!!
オラオラオラー(12連射)!!!





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| T U | 旅から | 11:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
湊川の風
楠木正成といえば、日本においては関羽や岳飛ばりに崇められている忠臣だ。
神格化されているとまでいっていい。
まあ現代ではそうでもないんだけれどもそれこそ戦前は、

 「天皇に尽くした忠臣」

ということで国を挙げてもてはやされた。
ルーツは水戸黄門の勤王思想あたりにあるんだろうけども、
それが尊皇攘夷から明治大正を経て、
昭和の人々によってすこぶるうさんくさくされてしまった。
私はその演出臭が鼻につくので今まであえて回避していた。

もっとも、私は太平記を読んでも、
楠木正成の爽やかさにとても魅かれはしたのだけれども、
どっちかというと尊氏のほうに魅かれてしまったクチだ。
私がもしも尋常小学校の生徒だったら教師にゲンコはられていただろう。
楠木正成に対しては忠臣などというような部分よりも、
爽やかで潔い戦略・戦術家として好意を持って憧れている。

その楠公・楠木正成の最後の地がここ湊川なのだ。
本当にここ神戸には見所がたくさんある。
どの時代にも日本の歴史、成り立ちに関わっているということだ。


神戸の町歩きmap すこたま重宝しました



ということで、福原ソープ街を素通りして湊川神社へ。


おお〜見事に銅像になってますな〜

こういう銅像はおそらく国家を挙げて至る所に造られているに違いない。
しかもそれらのほぼすべてが昭和作だということに気持ち悪さを感じるなあ。

足利軍の大軍を迎撃にするにあたり、彼の方針は京都放棄。
山に囲まれている京は大軍の駐留には、
防衛面からも補給面からも向かないことに着眼し、
いったん足利軍に明け渡した上で、
それこそ一網打尽にしてしまおうという大戦略だったのだが、
天皇の周辺の側近に大反対され、結局は真っ正面から相対することに。
関ヶ原でも大坂夏の陣でも日露戦争でもそうだったけども、
いつの時代でも本当の敵は味方の幕内にいるものなのだ。

そして、戦場を知らない無知な公卿どもが決定した無謀な方針に潔く従い、
この死地である湊川に小部隊で赴き、命を散らす。
このへんの物語は涙なしには見れないのだけども、
結局、戦局の行方には大した影響を及ぼしていない。

結果、尊氏の軍勢は雲霞のごとく京になだれ込み、
天皇はじめとする勢力は結局、京を明け渡すことになり、
吉野で南朝をひらくという異常事態が長年にわたり続くことになる。

「もしも、楠木正成の京都放棄作戦が実行されていたら・・・」

それでも尊氏の軍勢は彼らを打倒しただろう。
そう考えるとあっさり死地に向かった楠木正成は、
次の時代の予感=時勢を感じていたのかもしれない。




いずれにせよ、楠公は風になったのだ。
銅像は似合わない。







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| T U | 旅から | 00:49 | comments(2) | trackbacks(0) |
清盛の都
首都とは容易にかわらないものだ。
明治維新が成立し新政が敷かれることになり、
この機会に江戸からどっかに遷都すべしということになるのだが、
結局は新政府としては敵の根拠地であった江戸を東京としてそのまま使った。

実は大坂案が最有力だったらしいけども、
新政府には金がまったくなくて遷都どころではなく、
現実的には江戸の都市機構をそのまま使わざるを得なかったということらしい。
それを密かに大久保利通に献策したのが前島密だという話は有名だ。

それは北京も同じなんじゃないだろうか。
ここは伝統的中国の王朝が居座った中原でもなく、
経済的に有利な華南の各地でもなく、
なぜか北方の、しかも交通の要衝というわけでもない、
あまり首都としての便利がいい土地ではなさそうなとこなのだ。

元が首都としてこの地に居座ってからなんとなく、
明代も清代もそして中華人民共和国もこの地を首都にしている。
王朝がいくつもかわってもここは首都であり続けているのだ。
あのときに蒋介石の国民党が勝利していたとしても、
首都は南京でなく北京だったのではないか。
おそらく各国の大使館があるとか金がないとか、
明治の東京のような理由があるんだろう。
それほど、国家にとって「首都」というのは替えがたいものなのだ。


しかし、大昔の日本というのはしょっちゅう首都を替えたのだ。
それも縁起が悪いとかなんとかそんなどうでもいいような理由でコロコロと。
紫香楽宮、難波京、長岡京などなど一年やそこらでほんとにコロコロ移転した。
その中でも福原京は4ヶ月というひときわ短命の首都だった。

福原京は平清盛が海洋国家を目指して遷都を強行したとされているが、
まったくそれは疑わしい話だ。
どうせ占いとか夢に神獣が出てきてどうのとかで福原遷都になったに違いない。
そんなもんだから反対運動も火の出る勢いで、

「せっかく貴族になったのに草深い田舎などには行きたくない!」

ということで上皇も清盛の身内である平家一門も全力で反対した。
が、結局遷都ということになったのがここ福原だ。
ということで、なんと神戸はかつて日本の首都になったこともあるとこなのだ。


福原の街並み

灼熱の太陽をまともに浴びながらいやー歩きました歩きました。
そしてようやく見つけました、その首都の跡を。


この神社が福原京の跡地です


内裏があっただろう場所にはゲートボール広場が・・


安徳天皇はここにいたのです4ヶ月ですが

仮に清盛がもう15年生きて、遷都が完了し、日宗貿易がうまくいっていたら、
この地は今、日本の首都だったかもしれない。
しかし清盛死後、源義仲の軍勢の猛火によって灰燼と化した首都福原。
そして今ここは近畿地区きっての一大ソープ街となっている。
それが清盛にはいい供養だろうか。


あのアーケードのむこうはとてもムーディーなな世界


供養と思ってアーケードをくぐろうと思いましたが、
もちろんやめました。



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| T U | 旅から | 00:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
敦盛
信長の物語を見ていると必ず出てくるのが、

「人生わずか50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごどくなり ・・」

という彼の大好きな幸若舞の一説で、そのタイトルを「敦盛」という。
なので、敦盛という人物は50歳くらいで死んだ武将かなんかなんだと思っていた。
しかし、それが実は17歳で亡くなった貴公子で、
場所はこの須磨だと知ったのはとても最近のことだ。

ということで、「敦盛」を祀った彼の墓があるということで立ち寄ることに。
一ノ谷の合戦についてはすでに書いたけども、
平敦盛は平清盛の甥でまだ17歳、
笛の名手だという貴公子もやはりこの一ノ谷に従軍していた。


海への退却の途中、この貴公子に声をかける熊谷直実

「敦盛の最期」は有名な話のようなのでここでは多くふれませんが、
逃げる貴公子に、

「公達、帰させ給え」

と声をかけて熊谷直実。
呼び戻すほうも呼び戻す方だが、
またそれに応じてホイホイと戻ってきて一戦を挑む心理はどういうものなんだろう。
私にはまったく理解ができないがそれがこの時代の武人の生き方なのか。
それとも本当のとこは浜に忘れ物でもしてしまったのだろうか。


須磨寺の敦盛像

いずれにせよこの若武者は、
自らの親ほどの年齢差のある歴戦の荒武者の手にかかって討たれてしまった。
あまりの立派さに熊谷直実も一命を助けようとしたが、

「疾く 首を討てり」

として潔く討たれてしまったという。
この物語に私が魅かれるのは、秋田の敦盛といわれた(誰もいってませんが)、
「菊地山三郎」のケースと似ているからだ。
だからぜひ、敦盛の墓前にて手を合わせたい。


一ノ谷敦盛卿之墓


それはやはり海のすぐそばにありました


合掌


胸に去来するものをぐっと呑み込み、
隣にあった便乗商売のそば屋「敦盛そば」へ。





ここはたとえば、奇兵隊ラーメンとか龍馬うどんみたいな、
各地にあるさもない有名人便乗商法のそば屋なんだけども、
ここのすごいところは、すでにその商法を江戸時代からやっているということだ。
記録ではすでにその当時から「敦盛そば」と銘打って、
参勤交代の行列に果敢に売り込みを図っていたということが残っているらしい。
なかなかの商魂だ。

熊谷直実はこの件をキッカケに世の中の無情を悟り、
武士をやめて仏門に入ったという。
そう考えると菊地山三郎における庄内軍・野沢権内の
その後を追跡するのもおもしろいのかもしれない。
熊谷直実と比較されては野沢権内も可哀想だけども。




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| T U | 旅から | 00:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
一ノ谷古戦場にて

やはりこのへんに来たら須磨でしょう。
古文の教科書とかによく出てきたこの地は古くから風光明媚な名勝として知られ、
白砂青松といったら須磨の代名詞だ。

しかし、そういったことよりも何よりも。
その須磨は源平攻防後半戦の第1ラウンドとも言うべき、
「一ノ谷の戦い」が行われた一大決戦地であるのだ。

一時は京都を追われた平氏軍も、西国に戻って勢力を盛り返し、
京都奪還戦を繰り広げるべくここに大集結。
迎撃する源氏軍とこの神戸の地で向かい合うことになる。
そしてこの須磨はその平家軍の最後尾の場所にあたるところなのだ。


須磨の山上から東方面(神戸方面)をのぞむ

ロープウェイで登ると地理がよくわかる。
この写真の開けた平野が決戦場だ。
手前には平家の大軍、奥には源氏の大軍、そして海には平家の水軍が。


須磨の海には当時、平家の大本営が


西側は播磨平野 淡路島と明石の街が見えます

この須磨の断崖は、播磨平野と神戸の平野を隔てている難所なのだ。
だから、大軍の往来は難しい。
平家の大群は海からこの決戦場にやってきたことだろう。


膠着状態が続く中、戦いが大きく動いたのは、
突如この山の断崖からあらわれた義経の遊撃部隊だ。


これが三ノ谷だそうです


一ノ谷方面です

見ての通りのかなりの断崖。
ここで「逆落とし」というプロレスの技のような歴史的事件はおこったのだ。


義経を先頭とする関東の陽気な荒武者たち

こんな谷を馬でdiveしたというのだから何考えているのかわからない。
三浦義連などは、

「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ!」

などとほざき、真っ先に駆け下りていったというのだから、
ほんと無邪気というかなんというか・・。
あの英雄にして力持ちの畠山重忠などは馬を背負って転がり降りたという。
なんという荒唐無稽な人たちなんだ・・。
関東のヤンキーたちを思い出した。
たぶん今でもあのへんの暴走族はこんな感じなんだろう。
なんと無邪気で無思慮なことをしたものか。

しかし、この作戦は大いに効果があったのだ。
こんな断崖から現れるはずのない部隊が突如出現したので大混乱に。
実は義経の部隊は70騎という少数だったらしいが、
こうした心理状態の中で情報は錯綜し、しかも確認するすべもなく、
谷の下にいる平家からすれば大軍が背後から襲ってきたと思ったに違いない。

結果的には誰もが知っているとおり、
義経のこの迂回作戦が決定打となり平家は大崩れ。
大損害を出しながらもこぞって船に乗り屋島に向かった。

この戦史に残る戦いは、
もちろん、勇気を出して坂を降りたからということがポイントなのではなく、
大局的に、出現しようもないところに出現したという遊撃作戦が、
「騎兵の集団運用」という点で世界戦史としても希有な例として評価されている。
アレクサンダー大王やハンニバルなどの天才の得意技だ。
日本においては桶狭間の信長が類似の例だといわれているくらい。
それゆえ、義経は天才と言われているのだ。


史蹟「戦の濱」と書かれてあります


白砂青松の浜辺

しかし、平家の失敗はあらかじめ堂々と海上に退路をおいていたことだ。
トップであるところの総大将・宗盛は海上で指揮を執っていた。
もちろん安徳帝も建礼門院も海上の安全な司令部の一角にいる。
要するに、戦う前から半分以上、逃げる準備をしていたということだ。

これは平家の戦略構想上の大失敗だったと思う。
単なる局地戦ならいいかもしれないが、
今回は九州などの西国で勢力を盛り返してきた平家が、
京を奪還するための存亡を運命を賭けた一大会戦だったはず。

であればやはり、
退路を断ち陸上に大群を集結させて決死の戦いを挑むべきであった。
そうした決死の布陣をしいてあったのなら、
谷の上から70人程度のゆかいな人馬たちが落ちてきたくらいで、
潰乱して海上に逃げまどうこともなく冷静に対応ができていただろう。

この一ノ谷の逆落としの結果、
女子供も含めた彼ら平家は、
おびただしいほどの関東ヤンキー軍団に西へ西へと追われることになった。
そしてここから壇ノ浦まで平家は滅亡へのロードをまっしぐらに進み、
最終的には暗い水底にすべて沈むことになる。

もちろん女子供も、天皇もだ。





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| T U | 旅から | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
steak KOBE
本当は播州赤穂や備前岡山などにも初上陸してみたかったのだけども、
さすがに姫路よりも西に行っては帰るに支障があるので、
便利な神戸に腰を据えて置くことに。
ここでも見たいポイントはかなりあるのだ。
しかしながらもう夜になるので今日はsteakで我慢しておこう。


神戸三宮に初上陸


駅前のJTB三宮支店発見

新卒の頃、ここのJTBで私の尊敬する秋田人経営者O氏は育ったのだという。
その当時の光景が簡単に目に浮かぶところがあの人のまたスゴイところだ。

神戸は米沢と同じく明治に入って国策で畜産に力を入れた地域だけど、
外国人居住地からの需要が大きいために当時から消費にも活力があり、
日本のbeefの総本山に近いpositionを得ている。

「そんなとこに来ておいてトンカツを食べるバカがいるか」

ということで迷うことなくsteakhouseへ。


なんか聞いたことあるというだけの理由でこのお店に


鉄板カウンターで料理人が焼いてくれるというclassicなstyle


beerをあおりて肉を待つ


はい来ました これが今夜の私の肉だそうです


神戸牛サーロイン200g 霜ふってます


cutして焼き始める料理人







いやいやなんとも手際がいいのだ。
秋田にこんな感じでsteakを食べれるお店は私の知る限り現在一軒しかない。
それがこのbeef王国には星の数ほどひしめき合っている。


焼き上がった箇所から皿に盛られていく


脂がumai上質なサーロイン


とても日本的なsteakなのだと思います

さすが王国。
たいへん満足できました。
そして私の前で肉をserveしてくれる手際のいい料理人を見て思ったことは、

「俺だってできるんじゃねーか?」

というワクワクしてくる素朴な疑問。
だって、肉は加工されていない肉だし特別な味付けもない。
焼き方さえモノにできれば俺にだってこの味は創れるはず。
そう思ってしまったらもういてもたってもいられない。
ということで、この日の時点で構想は完成。
帰ったら早速やるのだ。
あとは修練あるのみ。

なんてカッコつけてますが、
自前で創ろうと思った構想にひときわ加速を付けたのは、
このsteakの支払いであったことは間違いない。

私にとってはとても高い金額!
さすがに王国価格でしたよ・・。
おかげでその日はどこにも行けなくなってしまいました・・。





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| T U | 旅から | 00:13 | comments(1) | trackbacks(0) |
巨城、生けるが如く

青天の下、そびえ立つ巨城の天守閣目指していよいよ大手門をくぐる。



大手門から天守閣までこんなに距離があるのだ。
この城の城域の広さがうかがえる。

まず手始めに西側から攻める。
百間廊下という防御設備だ。



いやーここまで来るのに汗だくでした。
でもさすがに平日のせいかここまでくると人は疎ら。
とても贅沢な時間となりました。


百間あるという長い廊下です

こういうのがたいだいそのまま遺っているというのが、
この国宝のすごいところ。


その突き当たりには千姫の間が

そういえばここには千姫が住んだこともあったのだ。
彼女は信長の妹の孫であり家康の孫であり秀吉の息子の妻であるという
戦国の超サラブレッドだ。
幼い頃から大坂城で人質として暮らし、
夏の陣の際には焼け落ちる城塞の中からやっとのことで救出されたという、
その長い人生においていくつものドラマを持っている人だ。

有名なのは「千姫事件」だろうけども、
彼女を力づくで奪おうとした坂崎出羽守にシンパシーを感じるのは、
たぶん相手の本田忠刻が相当なイケメンだったということに由来しているだろう。


いやー素晴らしいビューイング

風雲急を告げる早馬が走ってきそうな空間です。
ここは視界に入るすべてが江戸時代なのです。
本丸へ急ぐべし。


どーんと天守閣


播州平野を見下ろせる高さです

が、改修工事中ということで天守閣には入れず。
なんてことだ姫路城。

しかしこの城は生きているような感じしますね。
名古屋城や大坂城などはもう死んだ城ですが、
同じ国宝でもたとえば松本城のように命からがら生きているような感じもない。
いまだ躍動感モリモリで生きているような錯覚を持ってしまいます。
姫路の風はやさしい風なのだ。
この風土がこの城を天下の名城たらしめているのだろう。



ただ、何度も繰り返すようだけども、
やっぱり何かひと味足りないと感じてしまうのは、
この城が「城を枕に」という凄絶な籠城戦を経験してないからなんだろう。

それは熊本城や鶴ヶ城や霞城にあり姫路城にないものなのだ。
そういう点では周辺の播州三木城や備中高松城、摂津有岡城などは、
ふるえるくらいの何かを感じるんだろう。
いつか行ってみたい。



でも、外人がこの城を見るなら最高でしょうね。
事実、平日の日中だというのに、
城内はおびただしいほどの外人であふれかえってました。
視覚的にもこの城はとてもアピールしてくるものがあります。


まさしく天下の名城、生けるが如く。
全部歩き終わったあとはもうぐったり。
もう一杯「えきそば」食べようと思いましたが、
この期に及んでは後悔してはいけないと思い「明石焼き」にしました。






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| T U | 旅から | 00:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
播州姫路

姫路というと大阪の立派な隣の県で、
しかも隣の隣の県に近いというくらいなのだけども、
難波から電車で小一時間くらいなのだ。
そこは東北とはさすがに地理的なスケールが違う。
電車も乗り換えなしのがバンバンあるし交通費も安い。
ということで、我が足は播州へ。

六甲山を過ぎたらと思ったら明石の城。
淡路島が間近に見えたと思ったらそこから播磨灘だ。
その播磨灘の中心地に姫路はある。
黒田官兵衛が播州支配の拠点としてひらき、
秀吉が中国毛利計略の拠点として居座ったのがこの姫路。
本能寺事件の一報を聞いたとき、
今私が来た道を秀吉の大軍は神速の勢いで駆け戻っていったのだ。
「中国大返し」という歴史的事件、
休みも取らずに京へ向かう荒武者たち。

「彼らは道中何食ったんだろうか。あー腹減った」

なんて考えているうちにすぐに着く。
いやー秋田から青森もや盛岡に行くにもこんなに気軽に往来したいもんですよ。


姫路のB級グルメだという「えきそば」

駅員に場所を聞いたら、

「そんなもん食わずに外でなにかumaiもの食え」

と言われてショックだったけどもやはり「えきそば」を頂くことに。


単に普通の天ぷらそばにラーメンの麺が入っているだけ


しかしそれがB級グルメというものです

駅員の忠告が胸にリフレインしてくるのですが、
後悔はしていません。


姫路はほがらかで爽やかな気候

やはりここに来たのなら見るべきものはただ一つ。
天下の巨城、姫路城だ。
全国の城を見ることマニアの域に達している私ですが、
姫路城はまだ足を踏み入れたことがない。

なので今回は、
おそらく日本に残っている城としては最高の城塞であるこの城を歩きたい。
当然ながら、この城は国宝だ。
そして世界遺産だ。


商店街を通って城の方角へ

いかにもおいしそうなお店がたくさんある。
さっきの駅員の声が呪いのようにこだまする・・・。
それでもわたし後悔なんて・・・しない。


立派で巨大なお堀


天守閣が遠くに見えてきた


これは城見台という城をみるためだけの台なんだそうです

驚いた。
このアステカの犠牲台のような構造物は、
単にここから城を見るためだけに造られたものなんだそうだ。
市民のこの城に対する思いが出ている。
謹んで登壇させていただき、天守閣を遠望してみた。


ガーン・・・ なんか工事しているね・・・ 


大手門にようやく到着



秋田人、いざ城内へ参る。





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| T U | 旅から | 00:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
大阪のゲルニカ

夜も深まり〆のラーメンを物色して街の人に聞いたところ、

「金龍やで〜」

みたいな回答が帰ってきたのでそこに行ってみることに。


歩くこと数分 それはすぐに見つかりました。


だって派手なんだもの・・・。

至るところにあったのでけっこうなチェーン店らしい。
経験上、こういう店構えはあまり期待できない。


オープンカフェみたいなオープン座敷席


さあ来ました濃厚とんこつ!


腹減ってないけど食うぜ!

なんと冴え渡る勘!
予想通りにいまいちでした。
大阪の人はこういうラーメンが好きなのかな。
神座にしておけばよかった。

なんてぶつぶつ言いながら、
あの伝説の大技「アズスーンアズ」炸裂寸前のところを、
すんでのところでなんとか制止してホテルへ。
俺も大人になったもんだ。


道頓堀の夜

大坂夏の陣ではここら界隈から京にかけてはまさにゲルニカの様相だったという。
多くの逃げまどう民衆が灼熱を回避しようと堀に飛び込み溺死した。
米軍による空襲のときもそうだったに違いない。
おびただしいほどの暗黒がこのクリークには堆積しているのだ、

とはいいつもその小汚いドブ川に、
阪神が優勝したときには、
奇声を発してよろこんで飛び込む若者が後を絶たなかったという。
まったく理解不能な行動に思えるんだけども、
しかし、そのとき私がここにいたならやはり飛び込んでいただろう。

大阪っていうのは不思議な街だ。




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| T U | 旅から | 00:52 | comments(1) | trackbacks(0) |
法善寺横丁のこぶ志

けっこう前に大阪&神戸に行ってきた。
何年ぶりかにミナミに泊まってみたけども、
やっぱり賑わいとしては東京のやかましさを見慣れているせいか、
天下の大阪といえども数段グレードダウンしている感がある。
やっぱり東京にはなんにしたって負けるってこと。
いやな国だなあこの国は。



大阪に行っていつも困るのは、

「俺は何を食えばいいんだろう?」

ということ。
名古屋や博多や札幌、仙台なら、
それぞれに個性のある地物があるので迷うことはない。
しかし、大阪を特徴づけているそれらは、たこ焼き、お好み焼きなどの類なのだ。
そんなもので酒が飲めるか!って感じなのでいつも困る。
せいぜい串カツならbeerがすすむかもしれないが、
近年になく太り気味のこのbodyには串カツなどそうとう危険な代物だ。
まあ大阪にはなんでもあるんだけどもね。

ということで、いつものようにセコイ居酒屋へ。



セコイとはいいつつ、法善寺横丁は閑かでいい感じ。



この神社の不動明王は水かけられるので苔むしてます。
こういうのもいい感じだなあ。
街の喧噪の一本裏にある閑かな通り。
ささやかな神社は必須ですね。



今回は見るからにリーズナブルな感じのおでん屋。



まず鱧を。
秋田ではなかなか食べないからね。



どこかで見たことのある感じ。



そぅです。
あの秋田の名店「こぶ志」とそっくり。
もっと甘ったるいのを想像してましたが、味もままんで同じでした。
こぶ志のおでんは上方流なのだろうか。

そういえばこぶ志もここのところ休業が続いているらしい。
最高心配だ。
早く復活して欲しい。
こぶ志が閉店してしまったら俺はここまでおでんをきっと食べに来るだろう。

隣では大阪弁の酔客がクダまいている法善寺横丁の夜。




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