Tiger Uppercut!〜ある秋田人の咆哮

タイガー!タイガー!アッパカーッ! 秋田の歴史、文化、グルメ、時事、そしてステキな未来を書き下ろし!
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春の市場の

今年もumai肴とumai酒で、冬をたのしみました。
この冬、運動した記憶がひとつもない。
雪よせもただの一度もしなかった。
忙しかったのもありかなり体なまってますね。
昔は水泳とかちょくちょく行ってたんですけどね。。。


寒鱈のしょっつる(塩魚汁) これがまたumaiんだよな〜!


大根をねぎ味噌で これもまたなんとも言えない冬の味

今年の冬はちょくちょく隣の実家にいってこういうので酒を呑みました。
シアワセ〜。
こういうのを見てるとまだまだ冬が続いて欲しいと思うけども、
秋田の場合、なんと春も素晴らしい季節なのだ。
決して冬が過酷で嫌いだから春が待ち遠しいというのではなく、
ただただ春が素晴らしいから待ち遠しいのだ。
いいですが全国のみなさん、そこんとこよろしく。
別に冬は過酷ではないのです。
今年は雪寄せをただの一度もしませんでした。


ということで、春を探しに市民市場に散歩。
私はたまに市民市場にぶらりと行く習性があります。
幼い頃、母の仕事場がここに近いこともあって、
連れられて食料を買いに行くのは決まってこの市場だった。
だからなんとなくなつかしくて、季節の変わり目などにぶらりとメシでも食いに行く。


昼過ぎなのでもう今日は閉店モードだけど


秋田の市場はボダ(鮭)や筋子、タラコが多い 北前の所産です


真ん中で売られているのはサメですね

私は嫌いだけども秋田人はサメもよく食べます。
横手の市場には「イルカ」も売られているそうだけどもほんとかなあ?


そしてみごとな筋子! うちは決まって「高寅」の筋子です

いやー腹減ってきた。
というか、米が食べたくなってきた。
ということで、市場の焼焼庵へ。
ここは持ちこみ可なので、
よく市場で筋子やギバサをちょっとだけ買って持ち込んで食べます。
今回は「マグロとタイのお茶漬け丼」なるものが、
3月末日までの限定menuだというのでそれを。


まぐろ&鯛のチラシに追加の刺身と各種薬味がついてきます


醤油ではなくて味噌だれなんすよね


最後はなんとお茶漬けなのです


最初は味噌だれに戸惑いましたが、これがなかなか良かったし、
鮪鯛茶漬けもなかなかでした。
ぜひ食べてみてください。


鯛を食べるとなんか春って感じするね〜。
そろそろ居酒屋でアザミが食えっかな。
コシアブラと吟醸酒が待ってるぜ。

その前に人間ドッグだな・・・。





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| T U | 秋田についてもろもろ | 00:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
実は秋田は納豆のくに


納豆の発祥をめぐっては秋田か水戸かの論争があるらしい。
後三年の役の際に兵糧としてつかっていた、

「俵に入れた豆が腐ったのを勇気出して食べてみたら意外とうまかった」

というのが定説らしいが、
その兵糧を使った軍というのは源氏のヒーロー「源八幡太郎義家」率いる
いわゆる官軍だった。
そういわれると秋田説に分がありそうな気もするんだけども、
その官軍はこの秋田の地に来るまでに常陸も通ってきているだろうから、
結局どっちが発祥なのかよくわからない。

しかし、それはどっちでもいいとして927年前。
「源八幡太郎義家」がその名を世に知らしめたデビュー戦である「後三年の役」。
その主戦場だったこの仙北平野という大広野には、
れっきとして納豆を食べる文化が約1000年の間、連綿と続いているのだ。

同じ秋田県でも海側の秋田平野に住む私としては、
納豆は秋田のものではなく県外のものだとずっーっと思って生きてきたのだが、
この平野の人々は非常に納豆と密接な生活をしている。
ちょっと前までは各家々で自家製の納豆を製造して食べていたという。
そんなことをまるで、スクランブルエッグでも作るくらいの気軽さで言う。
現在でもこの地域には、小規模な納豆屋さんがたくさんある。
その長たる物がヤマダフーズなどの大工場だろうし、
そこでは「納豆汁」という他地域ではなかなかおめにかかれない代物もあるのだ。

ということで、県南まわりで田根森の街道沿いにある小さな村の納豆工場へ。
ここは見かけによらず大町にも出店している勢い旺盛な納豆屋で、
「日本一高い納豆」で有名な「2代目 福治郎」
ご主人がきさくなお方で、工場の奥の奥までご案内いただきました。


ここで手づくりの「日本一高い納豆」をつくっています


原料はこのようにすべて国産の豆です


「日本一高い納豆」の豆を手にするご主人


これは納豆をペースト状にした「納豆汁の素」なんだそうです


数々の賞状をバックにするシブイ納豆職人のご主人

10年ほど前にヤマダフーズの工場を拝見させてもらったことがあるが、
それとはまるで違う感じ。
まず当たり前ですけど。
あっちは「工場」でこっちは「工房」という感じしますね。
umaiものをつくるならやっぱこっちでしょう。
ということで力の限り購入してさっそく自宅で試食。


これが「日本一高い納豆」の「鶴の子」 これで500円します


豆の食感がGood!

あまりに高いのでご飯にかけるにはちょっともったいない。
素材を味わうために塩納豆にして酒の肴に。


そしてこちらは主力商品の安い納豆

県南のスーパーでならどこでも売ってるというさもない納豆。
実は個人的にはこちらが本命でした。
高い納豆はそれはそれでいいけども、
やはりこういう普通の納豆がどうか、ということで何かを感じたいのだ。















いやーほんと素晴らしい納豆でした。
私がいつも普通に食べている納豆とは決定的に「後味」が違う。
なんといってもこの食後に長々と続く余韻を愉しむことができるのが、
この納豆のなんともなんともステキなところだ。
特にひきわりはそれがとても濃厚だった。
上の写真を見ていただければなんとなくわかりますが、
このちょっと潤ってる感じがたまらない。
他の納豆とは納豆菌の質も量も違うんじゃないかと思ってしまうくらい。
うーん、仙北平野の風と土を思い出す。

このへんには地名も、
後三年、耳取、精兵などなんともあの戦乱を想起させるような、
実に味のある素敵なネーミングの地名がたくさんある。
路上の案内板を見るのが楽しい。
実際、この精兵、耳取のあたりは沼柵(雄物川町)から、
八幡太郎の最終目標である金沢柵(仙南村)までの一直線の街道沿いにある。
途中の精兵村のあたりでは、精鋭を駐屯させて練兵したりしたんだろうし、
耳取のあたりでは敵の幾多の捕虜の耳を削ぎ落としたりしたのかもしれない。
ドラマチックな楽しい想像は尽きない。
しかし、このあたり出身の友人に聞くと、
精兵さんというのは実は「川だか堤だかを開いた人」の名前らしい・・・。
うーん・・・この真実は聞かなかったことにしよう・・・。

大平野に吹く颪を避けるように寄り添い集まってできあがっているその集落。
そしてその集落のひとつひとつには八幡神社が。
時代はかわって、高気密高断熱の住宅になっていても、
おそらく1000年の昔から、
基本となる生活の原形は変わってないんじゃないかと思ってしまうほどの光景だ。
今この場所で納豆と飯で腹ごしらえをし、
敵の群がる金沢へまっしぐらに駆け上がる源氏の関東騎馬兵団。
鎌倉革命はこのときに端を発しているという人もいる。

源義家(八幡太郎)から数代後の源頼朝、義経ら源氏の子孫たちの活躍を、
「平家物語」として人々に語ったのは琵琶法師だったが、
八幡太郎のこの地での活躍を今になってなお雄弁に語っているのは、
この「仙北平野の納豆」だ。

秋田においては納豆は、単なる腐った豆ではないのだ。






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| T U | 秋田についてもろもろ | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
雄物川はるか


ここ最近、私の家の隣をゆったりと流れる大河に釣り人が横行している。
おそらくサクラマス狙いのフィッシャーなんだろうけど、その数がまた少なくない。


左中央部に見えるヤツがFishermanです 

ナンバーを見ると県外ナンバーも多いのでわざわざ遠くから来るんだろうけども、
人の家の庭の素敵な魚を針の付いた糸に引っかけて釣って食おうというのだから
住民としてはあまり気分のいいものではないなあ。
でもまあお互い様か。
あまり文句は言わないでおこう。

この母なる大河。
私はここの隣に引っ越してからというもの、
この河の音を聞き、川面に反射する光を感じ、水辺に集まる多くの小動物を眺め、
四季を感じ、要するに最高いい暮らしをしている。



この長大なる川は、
玉川上流から院内雄勝までかけての長大な奥羽山脈を源流として、
仙北平野という豊穣な大平野の南北にかけての細流水流を集め、
長い長いワインディングロードの末にこの秋田平野でようやく海に出会うという、
古代から「秋田」という「くに」を特徴づけているはるかな大河だ。

この最高にいい川の名前は雄物川(おものがわ)と呼ばれる。
この川の源流まで寄り添って走る奥羽本線が開通する前は、
この川の水運が秋田人の大動脈だった。
特に藩政時代には米や衣服はもちろん、
昆布、鮭、鰊などの多くの北前物の物資がこの川を往来した。
御物(年貢米)を運んだことから「御物川」転じて「雄物川」という名になったという。
そうして私も今、この大好きな川を雄物川と呼んでいる。

しかし、では貢ぎ物を御上に運ぶ前、遙かな古代。
この雄物川、なんと呼んだのだろう。
大河兼任が鎌倉殿に抗い遠征に行くときも彼の大軍がこの大河を遡っただろうし、
元慶の乱では多くの蝦夷反乱軍がこの目の前の川を遡上して行っただろう。
そしてまたもっともっと古き時代、
多くの大陸対岸から木船でやってきただろう様々な民族・人種の人々は、
この大河をみてなんと呼んだんだろう。




まあ実は雄物川と呼ばれる以前は大川と呼ばれたらしいが、
それではなんともつまらない。

特に今も中国東北部に住む少数民族(ツングース)であるオロチョン族は、
古代この列島に渡り、たたら製鉄やオロチ伝説など、
各地にその痕跡を残したという。
雄物川沿岸には製鉄の窯や炉の遺跡が多く点在する。
その彼らの言葉で、「川の多い入り江」のことを「デワ」と呼ぶらしい。
出羽の国という旧国名はここから来たともいわれている。
その彼らはこの素晴らしい河をみて、どんな名をつけて、どう呼んだんだろうか。



そしてまた、他の渡来した勢力には「秋田美人」の祖となる
白人種(コーカソイド)の一大勢力もいたはずだ。
彼らはこの偉大な河をどう呼んだんだろうか。

毎日このはるかな流れを眺めていると、そんなことばかり考えてしまうのだ。






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| T U | 秋田についてもろもろ | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
「菊地山三郎」を追え! 〜そして現地へ


白馬寺はとりあえずおあずけだ。
「名もなき少年兵」は白馬寺ではなく現地に埋葬されたという
しっかりもののソーウエモンの記述があるのだからそれが正しいはずだ。
白馬寺に埋葬されているのはどうせ73歳の「山三郎」のほうだろう。
ということで、

 「野沢権内はこの秋田人の少年の立派さに感心し、
  下淀川の地蔵堂に埋葬し、中淀川の寺に回向を託したという。」


この一文に出てくる、
「下淀川の地蔵堂」、「中淀川の寺」というキーワードを洗って見るべく、
現地に赴いたことがある。



この福部羅の地に立ってみると当時の情景が浮かぶ。
迫り来る二番大隊、放火しながら退却する官軍兵・・。

しかし、「山三郎」少年は相手が悪かった。
なにしろ庄内兵といったら、
「たそがれ清兵衛」や「隠し剣鬼の爪」のモデルとなった人々だ。
あの映画の真田広之や永瀬のような剣豪をイメージすれば近いかもしれない。





こんな鬼みたいなヤツらが相手なのだからそりゃ相手が悪すぎだ・・。


とりあえず現在時点でこの淀川地域にある寺にはすべて訪問して、
運良く住職たちと話をすることができたが、
このepisodeに関してはまったく知らず、
手がかりさえもつかむことが出来なかった。
この役立たずのハゲ坊主どもめ、
とは決して誓って思っておりませんホントですごめんなさい。
だって、それもそのはず。
中淀川の寺はいずれも禅宗だったが当地への創建はいずれも明治後で、
その前の出来事に関しては知らないとのこと。
それはもっともだ。



ということは、
明治元年当時にこの中淀川に存在した寺をあたらないといけないだろう。
そして、その寺の現在の所在がわかれば、
少しターゲットに近付くことができるかもしれない。

と思っていたところ、
最後に訪問した寺のご住職から、

「以前から中淀川にあった寺が、
 明治の廃仏毀釈の関係か何かで淀川から立ち去り、男鹿に行ったらしい」


という情報は得ることが出来た。
ありがとうお坊さま。


となると、次のアクションとしては、

・中淀川から男鹿に移った寺を探すこと
・下淀川の地蔵堂の発見と周辺での聞き込み調査


に絞られたわけだ。

・・・と、
ここまできて白状しますがこの状態になってからもう軽く2年がたちます・・。
はっきり言って難航しているんです・・。

何か情報ありましたらお願いいたします。
名もなき少年兵が待ってます。。。







「菊地山三郎」を追え! 〜まさか翁だとは・・ から読む





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| T U | 秋田についてもろもろ | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
「菊地山三郎」を追え! 〜白馬寺へ


とりあえず、その「名もなき少年兵」の墓が、
秋田市の白馬寺にあるといくつかの文献にでているので、
白馬寺へ行ってみることに。

秋田市手形にあるこの寺院へ行ってみて驚いたことは、
この寺は高校の帰り道の裏ルートにある寺で、
よく隠れてタバコを吸っていた寺だったということだ。
たしか2,3度ほど例のなじみの警官に補導されたこともある、
あの思い出あふれる場所だった。


(秋田市手形にある白馬寺)

おもむろに行ってみたので、もちろんアポはない。
なので残念ながら住職は不在で誰もいない。
正直とっても嫌でしたが、
展開上、しょうがないのでひとつひとつ墓碑をあらってみることに。

たくさんの墓の中からひときわ古そうな墓碑から単独調査開始。
背筋を襲うゾクゾクとする戦慄はすぐに襲ってきました。


(「討死」)

「討死」と書かれた墓をみたことがあるでしょうか?
私は生まれて初めて拝見しました。
ここにはこんな墓碑がごろごろと転がっているのです。


(明治元年 戊辰八月十四日 討死 )


(士族 八代良太 墓)


(官軍秋藩 田口傳八之墓)


(明治元年 九月十二日 由利長濱村 討死)

これらはすべて「前の大戦」の際に戦士として戦って、
武運尽き散っていった秋田人たちのしるしなのです。
合掌。

先輩の皆様、戦ってくれてありがとうございました。

この先輩秋田人たちは、
「鈍兵惰卒」、「秋田弱兵」などと長州人参謀のファッキン桂太郎などに
馬鹿にされて死んでいった。
しかし、本当にそうであったのか。
実際のところよくわからない。
装備の面でいえば確かに敵軍よりも薩長よりも劣っていた。
しかし、そういった中で「十文字槍」をもって一歩も退かず、
相手に対峙した勇敢な少年もいたのだ。
そういった面も私たち後世の語り部は伝えていかなければならない。
それこそが、「菊地山三郎に花束を!」書いた動機だった。
その少年がまさかじっちゃだったとは思いもよらなかったが・・。

長い長い捜索の結果、
結局「菊地山三郎」とかかれた墓碑は発見できず・・。
今度は住職のいるときに来て調べてもらおう。

ちなみに「ソーウエモン」というのは庄内二番大隊第五小隊長で、
下士四十名を率いる武人だということが判明しました。
「相良惣右衛門」というのが本名で、

おっとりした人物であり、
   戦争中でも常にマイペースであわてたことなど一度もない


というしっかりものの人物なんだそうです。

その彼が書いた覚書なんですから間違いないはずなんですが・・。
なんで菊地山三郎を十七歳の若武者と記したかは不明ですが、
戦争中であわてていたということではなさそうです。







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| T U | 秋田についてもろもろ | 00:05 | comments(1) | trackbacks(0) |
「菊地山三郎」を追え! 〜まさか翁だとは・・



日本において、

「この前の大戦」

というと、一般には太平洋戦争を指すと思うが、
京都では「応仁の乱」のことを指すのだという。
しかしこの秋田では、この前の大戦というと「戊辰戦争」なのだ。

幕末。
鳥羽伏見であがった戦火はとどまることを知らず北上し、
江戸こそ無事に済んだが、
その身代わりとして生け贄になった会津では城も街も人も灰燼と化した。
戦火はさらに北上し、函館で鎮火することになるのだが、
この間、東北地方の被害は甚大で、
中でも現在の福島県と秋田県の被害は凄まじかった。

秋田でも隣の南部、仙台、庄内藩との戦いによって、
とても多くの人命と財産が失われた。
特に、フランス式軍事調練を導入した庄内藩の強さは、
秋田藩のそれとはまるで比較にならず、
4つの大隊を国道13号線組(第一&第二大隊)と、
7号線組(第三&第四大隊)に分け、
現在の椿台ゴルフ場で全軍撤退するまで「無敗」の行進を続けてきた。



当然、その行進ルート上にあった各地域はひどい目に遭った。
特に、最終決戦場となった雄和地域は家屋の7割(椿台以南はほぼすべて)が、
軍事的放火によって消失したという。
まさに「大戦」だったのだ。


この秋田での「この前の大戦」のことがもっと知りたくて、
文献やFieldWorkを中心に情報を蓄積するようになってからだいぶたちますが、
このblogでも何度か関連する記事をupしました(「戊辰」などで検索を)。
その中で、

「菊地山三郎に花束を!」  → http://uppercut.jugem.jp/?eid=34


という庄内第二大隊と第四大隊との合同渡河作戦時で
命を落とした17歳の少年秋田兵のことを非常に感動的に書いたことがあります。



しかし最近の調査の結果、重大な事実が判明しました。
偶然、市内の古本屋で手にした古文献で発見したんですが、
なんと!

「菊地山三郎は73歳らしい」

ということ・・。
目を疑いました。
しかしさらに調査を進めると、
複数の文献がそのことを記していることがわかりました。
かなりの確率でこの紅顔の少年兵は73歳だったことになります。
なんてことだ・・。
73歳のじっちゃだったなんて・・。
俺の親父よりも年上じゃねーか・・。
しかも、

 「野沢権内はこの秋田人の少年の立派さに感心し、
  下淀川の地蔵堂に埋葬し、中淀川の寺に回向を託したという。」


とカッコつけて書いたりしましたが、
新情報によると、
73歳の菊地山三郎翁は白馬寺(秋田市手形)にきちんと埋葬されており、
立派な墓まであるそうな・・。


しかし、私もテキトーにそこらへん書いたのではなく、
実はこの記事は郡義武氏著書の、
「秋田・庄内戊辰戦争」P178からとったepisodeなんです。
著書にはこのepisodeの出典は「惣右衛門覚書」だとあります。

My God・・。
このままではそのホントの少年兵の英霊に申し訳がなく、
夜もおちおち寝られない。
書いてしまった以上、事実関係を確かにする責任もあるでしょう。
ということでしばらくこの、

「菊地山三郎」と惣右衛門覚書に書かれてたいたという少年兵

を追いかけてみたいと思います。

しかし、ソーウエモンっていったい誰なんだ???
わかる人がいたらぜひ教えてください。
たぶん、庄内藩側の人だと思いますが・・。






「菊地山三郎」を追え! 〜白馬寺へ に続く




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| T U | 秋田についてもろもろ | 19:54 | comments(1) | trackbacks(0) |
WE LOVE AKITA!

※ある県のメルマガに掲載した原稿です。



このメルマガは、県外在住の方も多く読まれているということですが、
首都圏に住む秋田県出身者は秋田県の人口よりも多いといいます。
この人口流出具合からすると、とても納得がいくことですが、
この人々のマンパワーを秋田発展にどうにか活用していくということが重要です。
先日、居酒屋で隣の酔っぱらいオヤジが、

「秋田は成績のいいヤツから順番に県外に出て行く」

と大騒ぎしていました。
あまりアテにならない出典ですが、確かにそういった面はあるでしょう。
私の実感としても実に納得できます。
だとすれば、この優秀な県外秋田人たちとどう絡んでいくか。

よくご意見いただくことは、

「秋田はそのままが一番いい、そのままでいて欲しい」
「秋田には都会には無いものがたくさんあるんだから」
「売り物はたくさんあるのに、売り方が下手だ」

といったところが代表でしょう。
それを聞く我々はいつもなんとなく反省させられてしまうのだけども、
いつも心に「?」を抱えている。

秋田出身者とはいえ、やはり現場を知らない人が言うことだから、
どうしても空虚に聞こえてしまうのだ。
いや、かつて現場を知っていただけに、見誤るということがあるかもしれない。
遠く離れたところから、田舎を残したいだの、自然を残したいだの、
無責任なアドバイスめいたことを口を揃えて言うのはそろそろ勘弁願いたい。
そういうリクエストをしてしまう我々県内秋田人にも非はかなりあると思いますが。

秋田が本当に必要としていることは、
県外秋田人が、秋田の未来に関して本気でコミットすることだと思います。
それが今若い世代中心に、
そういう動きがチラホラ見えてくるのは未来への光明です。
先日、報道された県外秋田人の秋田応援活動「WE LOVE AKITA」は、
その代表的なものだと思います。
→ http://akita.keizai.biz/headline/556/
→ http://we-love-akita.com/

こういった行動は百万言のアドバイスよりもジーンと響きます。
高校の卒業式で、私の学校の校長先生は

「人間、至るところ青山あり」

と式辞を述べ、広い世界へ向かって活躍するべしと説きましたが、
これからは、

「人間、至るところ青山なし」

という視点が必要です。
ふるさとである秋田よりも輝く場所などどこにもありません。
私たち秋田人は、秋田に住む人も、県外に住む人も、
そう胸を張って、特に子どもたちに堂々と言えるような秋田を、
共に行動することによって創らなければいけません。
「WE LOVE AKITA」の記事を読んで、そんなことを思いました。
コラム連載のはじめに、

『「新しい秋田の未来を創ろうという自立心旺盛な態度」を「秋田魂」と呼ぶことにした』

と申しましたが、
来月は知事選です。
結局、候補者はすべて県内秋田人になりそうですが、
今こそ知事選候補者も有権者も、
「秋田魂」を発揮してもらいたいと願ってやみません。

We Love AKITA! No Surrender AKITA!



※ある県のメルマガに掲載した原稿です。



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| T U | 秋田についてもろもろ | 03:15 | comments(2) | trackbacks(0) |
「秋田魂」を持つこと

※ある県のメルマガに掲載した原稿です。


皆様こんにちは!
今年度に入って2回目の投稿ですが、
実は「秋田魂」というタイトルでお世話になることになりました。
ものすごい気迫あふれるタイトルを頂きましたが、
実際の私は虫も殺さないような柔和な顔つきをしておりますので悪しからず。
タイトル変更の意図ですが、
昨年は「秋田サイコー!精神」にのっとり秋田のことを褒めまくってきましたが、
今年はちょっとだけシリアスに、
「秋田」というキーワードにこだわって行ってきた街づくり活動や
企業活動などの中で、
私が感じたことや気付いたことを書いていきたいと思います。
別の言い方をすれば、
「封印していた毒舌を解禁します」ともいえるかもしれません(笑)
さて、私はこの夏、10年続けた都市部での生活を切り上げ、
秋田市郊外の農村にある実家で生活することになりました。
雄物川という大河に寄り添うようにあるこの農村は、
「これぞ秋田!」というような水と緑と田園に囲まれた素晴らしい環境です。
そこで私は家族と一緒に季節を感じて暮らすのです。
これはとても贅沢なことだと思っているのですが、
現実は、楽しいことよりも、寂しさを感じることのほうが多い。

担い手不足で継続が難しくなってきているなまはげや梵天などの伝統行事・・。
子どもの人数がいないため中止になっているお寺でのラジオ体操・・。
かつては行き交う人で賑わったお盆のお墓参りも今は寂しく・・。
そして何より後継者のいない広大な田園を耕し続ける兼業農家の方々・・。

秋田県が全国一の人口流出県だということは、
誰もが知っていることですが、
それは数字上のことではなくて現実の生活上のことなのです。
この秋田駅からたった20分足らずの農村でさえも、
20年後に実際に農作業に従事できる人々は激減します。
なぜなら、20年後に従事できる人が今、実際にそこに住んでいないのです。
もちろん戻ってくる予定などまったくありません。
農作業の出来なくなった人々ばかりが住む農村って想像できますか?
これは生々しい肌触りの現実で、今からわかっていることです。

そして、それに対して特別な手だてがないというのも現状なのです。
自然がいいとか、農業は大切だ、田舎が気持ちいいなどと言っているだけで、
なんとなくいい雰囲気になっているだけでは、
首が絞まる時期にきているのだ。
少なくとも流行の「LOHAS」的な雰囲気はちっともない。

「冷静な目で現状をしっかり認識する」

こういう態度がより重要だと思います。
思い込みや精神主義ではもう逃げられなくなってきています。、
すでになんとなく聖域化されてきた「自然」や「農業」というキーワードでさえ、
思い切った切り口で新しいメスを入れなければいけなくなってきていると思います。
私は農村にあって農家ではありませんが、
実際に農村生活者の視点で見ると、
現状の延長線上には滅亡しか見えないのです。

だからこそ、これからの秋田で生活する秋田人は、
新たな「秋田スタンダード」を創っていかなければいけないと思うのです。

「秋田にしかない特別な何かを創る」

これは無理矢理に何かをほじくり出してきて、
「おらほの村自慢」をすることではまったくありません。
それが今「ない」というのであれば、
それを100年かかっても1000年かかっても創り上げなければなりません。
そこまで言うと大袈裟が過ぎるかもしれませんが、
しかしそういう気概や意気込みを、
現代日本における地方人、特に秋田人は持つべきだと思います。

「新しい秋田の未来を創ろうという自立心旺盛な態度」

それを私は「秋田魂」と呼ぶことにしたのですが、
以降、それについて書いていきたいと思います。


※ある県のメルマガに掲載した原稿です。


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| T U | 秋田についてもろもろ | 16:10 | comments(2) | trackbacks(0) |
全国学力テスト2年連続ナンバーワンの秋田県

※ある県のメルマガに掲載した原稿です。


「全国学力テスト」で秋田県が2年連続1位というニュースは、
今年、久々に秋田人を誇らしげにさせてくれた最大のニュースだったと思います。
私も先日、ある全国の人が集まる会合で、
「学力テスト2年連続ナンバーワンの秋田県から来た○○○さんです」
と紹介をうけて鼻高々でした。
こんなに鼻が高くなったのは秋田人として生まれて初めてのことかもしれません。

メディアも何度も何度もとても良く扱ってくれていて、
TVをみていてもテレまくりだ。
つい先日も、下位に低迷する大阪府と比較をする形で、
秋田県の教育政策、特に知事や教育長が素晴らしいと絶賛されており、
ふたたびテレてしまった。
まあ私にテレる筋合いはまったくないのかもしれませんが、
私が大学受験を受ける頃は、

「秋田県の高校生の学力は沖縄に次いでワースト2位だ。本土では最悪だ。」


などと、自虐的に言われていたものなのです。
それを思うと、秋田の学力は飛躍的に改善したような感じがするし、
実際そうだということが2年連続全国1位ということで証明されました。
これは主に、現場の先生たちと家庭の方々の不断の努力の賜なのでしょうが、
小学生の子をもつ親としても、本当に頭が下がるし、気が引き締まります。

しかし学力が飛躍的に向上したこの間、
その一方では、
秋田県の人口流出は飛躍的に悪化しているのもまた事実なのです。
特に、21世紀に入ってからの転出超過は凄まじく、
人口減少率では2年連続どころではない、
何年にもわたり全国最下位を確保し、
日本の人口流出の最先端をリードしています。
そして、人口流出の主役は若い世代、主に高校生。
秋田県の高校を卒業した高校生は、
7割以上も東京をはじめとする県外に流出しているという。
これも全国的に有名な事実です。

これらをあわせて考えると、
TVなどでホイホイされているからといって、
まったくテレている場合ではないんだった、ということに気付いてしまう。

確かに秋田の教育は素晴らしく、トップも現場も素晴らしいのだと思う。
結果が出ている以上、世界中の誰にも文句は言えないだろう。
しかし、その素晴らしい教育で優秀な子供を育成し、
挙げ句の果てには、ことごとく東京に送り出しているというのではやりきれない。
次のステップでは、

「積極的に地域に(秋田に)貢献したいと思う心の教育」

が必要ではないでしょうか。

そうすれば、
「秋田で人生を賭けたいと思って地域に残る優秀な若者」

「秋田に積極的理由で戻ってきて活躍する優秀な若者」

が増えるのではないでしょうか。
地域活性化は人材が命でしょう。
優れた若者が秋田にはたくさんいることが、
今回の学力テストでわかったわけですからなおさらです。

「優秀な若者を育てて、首都圏に供給し、そして地域は衰退を極めっぱなし」

というのでは「全国学力テスト1位」というのも単なるサムいジョークだ。



※ある県のメルマガに掲載した原稿です。


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| T U | 秋田についてもろもろ | 03:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
君、秋田弁を蔑むなかれ
2年にわたってある県のメルマガに寄稿していた原稿をまとめてupしておきます。
まずはこれから。


「君、秋田弁を蔑むことなかれ」

そういう自分も幼少の頃は、どうにも秋田弁がコンプレックスでした。
こういう言葉を使っている自分は実は日本人でさえなく、
とても差別された卑下されるべき存在なのだとさえ思っていました。
別に親や先生にそう教えられたわけではないんですが、
少なくともテレビでの「東北弁」はそういう扱いをされていたので、
知らずに持たされてしまった劣等感だったのだと思います。

しかし成長し、自分でいろいろ歩けるようになり、
国内の他の地域や人々と交流し、海外へも行き、
関西弁、名古屋弁、九州弁、英語や韓国語や中国語などの様々な言語に生で触れるにつれ、ついにわかりました。

「別に、恥じるべきものではないと」

ずいぶん遠回りしたものだと思いますが、
現実に、東北弁は蔑視されている雰囲気にあると思います。
なんなんだろうこれは?

明治政府が行った施策の一つに「言語の統一」があります。
それまでの日本では、各々の地域で各々の風土に適った言葉を使っていました。
しかしそれぞれに話す言葉が多少なりとも違うので、
国家を運営していくには非常に不便です。
ということでその当時、東京周辺で話されていた言葉を基に
整備して作ったのが「標準語」です。
これを制定して普及させることによって、
国民に法令などの「中央の意思」を行き渡らせようとしました。

さて、それを普及させるために方言蔑視キャンペーンが始まります。
手っ取り早く標準語を普及させるには、
これまであった言語である方言を蔑視する雰囲気を作ってしまって、
葬り去るのが最も手っ取り早い。
そう思いついた当時の政府関係者が、

「標準語はとてもスタイリッシュで方言は田舎くさし」

という風潮をメディアなどを駆使して巧妙に作りだしていきます。
特に明治政府は成立の経緯もあり東北をあからさまに毛嫌いしたので、
東北弁に対しては手を抜かずにキッチリやりました。
結果、標準語は普及し、東北弁は失われていく。
要するに「方言蔑視政策」は「標準語普及政策」と表裏一体なのです。
それが今もなお風潮として続いていて、
秋田弁は次第に使用される機会が激減し、衰退し続けている。
薩長が我々に放ったボディブローは140年経った今でもじわじわと
効いているのです。

はい、すいません。
以上は私の勝手な被害妄想です(笑)

標準語をきれいに話せるようになることは重要ですが、
現代を地方で生きる「現代地方人」としては、
それだけではなにか物足りません。
というのも言葉とは風土、すなわち生活の連続から出てくるものですよ。
だとすれば、話す言葉にも誇りを持たなければいけないと思うんです。
そして言葉は使われなければ失われてしまう。

標準語を話すべき時は標準語、秋田語を話すべき時は秋田語、
イギリス語を話すときはイギリス語。
堂々とTPOで使い分けることが「現代地方人」に求められています。
そしてそれができることがカッコイイことだしオモシロイことなのです。

秋田弁をもっと知り、もっと使い、もっと伝えましょう。
特に女性ですね。
若い女性ほど秋田弁を使いたがりませんが、
私の知人などでも秋田弁を流暢に話す女性は実に魅力的です。



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| T U | 秋田についてもろもろ | 14:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
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