Tiger Uppercut!〜ある秋田人の咆哮

タイガー!タイガー!アッパカーッ! 秋田の歴史、文化、グルメ、時事、そしてステキな未来を書き下ろし!
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中国見聞録 〜坂上雲 二百三高地にて咆哮す

第三軍の指導者層の無能ぶりをつい愚痴ってしまったが、
この時代、すべての軍人がそうだったわけではない。

むしろ「坂の上の雲」を読むと、
海軍も陸軍もすべからく優秀な指導者と現場スタッフに恵まれていたし、
現実主義、合理主義、楽観主義、能力主義に貫かれた、
実に魅力的な侍の方が多かったと思う。
実際、そここそがロシア帝国よりも優位な点だったし、
日露戦争は最終的には、

「ロシア帝国に侵略されずに退けた」

という意味において勝利したのだから。
日本人はとても優秀であり有能だったといえる。

もちろん、この旅順も多大な犠牲を払いつつも結局は陥落した。
旅順攻囲戦の局面の大きな転換点となったのは、
第三軍の参謀たちから作戦&指揮権を一時的に剥奪したことだとされている。
もちろん、いろんな見方があるだろうが司馬遼太郎はそう言っている。
そして、かわりに指揮をとったのが有名な児玉源太郎だ。


(日本を救った英雄の1人、児玉源太郎)

そもそも旅順攻囲戦の目的というのは、
旅順港に温存されているロシア艦隊の砲撃&無力化にあるのだ。
1つ1つあの強固な殺人要塞を陥落させなければならないということではない。
であれば、港までの視界良好で射程距離であるこの二百三高地を陥落させて、
ここから二八サンチ榴弾砲をもって撃ちまくればいい。


(白玉山から旅順港を 左側にターゲットのロシア艦隊は停泊していた)


(二百三高地から旅順港を なるほど中央奥に視認できますね)

本来は、東鶏冠山などのような強固な防御を持った要塞正面に、
肉弾突撃しまくる必要はなかったのだ。
最初からここに兵力集中させるべきだったのが、
例の参謀たちはそれをやらなかった。
その間、敵はこの二百三高地というウィークポイントに気付き、
この山のような丘のようなこの場所に悠々と防御工事を施した。
そして児玉源太郎によって二百三高地攻めが行われた際には、
すでに圧倒的防御力を持った鉄壁の要塞として立ちはだかった。


(当時の二百三高地 とてもオドロオドロしくまさに死の山だ)

大量の死者を出した激戦の末、
ついにこの二百三高地は陥落した。
そしてそれがキッカケになって、1ヶ月後に旅順要塞も陥落した。



幾万の日本人が、
単純にこの山頂に登るために、ここで一挙に死んだのだ。
ここから頭上に降り注いだ無数の機関銃の弾丸。
まさに地獄だっただろう。
この山は文字通り、日本人の血を吸ったのだ。

「いつか二百三高地の土を抱き締めたい」

というのが長年の夢だったが、
今回の旅でついに実現できた。



100年前の先輩のみなさま、
日本のために死んでいただき本当にありがとうございました。
ここでの奮闘の末に、今の私たちの社会はあります。
ここに来て、この人々のことを想って、そして日本をまた好きになりました。



素直な感謝の気持ちのあとに、

「平和な世界を」

今更ながら、そういうことを思いました。







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| T U | 旅から | 16:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
中国見聞録 〜坂上雲 東鶏冠山にて震える

旅順と第三軍についての話をもう少ししたい。
この旅順にいると、どうしてもこのことについて思い出して、
こらえようのない感情に震えるのだ。


(第三軍の司令部が置かれた柳樹屯は前線から遙か後方・・)

大本営は第三軍の作戦に問題があるとして何度も暗に再検討の要請をしたが、
それにも関わらずいかに指摘をされてもその方針を変えようとせず、
ただ単に大本営には、

「砲弾をくれ」「兵員の補充を」


(大事に大事に使わなければならない日本の貴重な砲弾)

としか言ってこない。
そして補充した砲弾と兵員を持ってまた無策にも同じことを繰り返し、
日本人を旅順の土にするのだ。
もうやってられない、というのが関係者の正直なところだっただろうが、
しかし実際に、

「旅順がおちなければ日本は終わってしまう」

という状況にいささかの変わりもない。
そこで、この第三軍へ新たな攻城砲が送られることになるが、
その際にも第三軍は当初、「送ルニ及バズ」という電報を打っている。
砲科の専門家として、砲床を築くコンクリートが乾くまで2ヶ月はかかり、
送られたところで使用するには不可能だというのがその理由とのこと・・。

しかし結果的には、
大本営から送られた「砲床構築班」というスペシャルチームによって、
わずか9日で使用できうるまでになった。
今の時代もこういうグダグダ言うだけで役に立たないエキスパートはいるが、
この時代にもいた。
しかし日本にとって不運だったのは、
その人が日本の運命がかかった旅順にいたのだ。
そして皮肉にもこの、

「二八サンチ榴弾砲」


「陸戦において大いなる役割を果たした二八サンチ榴弾砲」

という巨砲が日本を救う役割の一翼を担うのである。
この日本を救った特殊部隊の子孫がいればぜひお会いしてお礼を言いたくなる。
仕事でも何でもそうだが、
生半可の知識や常識で物事を限定して考えてはいけない。
基本、不可能はないのだ。
明治の実像というのはこんな人々が大勢いて、
伸び伸びと生きていた時代だと私は信じている。


また、第三軍の動きはいつも敵にバレバレだった。
なぜなら必ず十三日か二十六日に総攻撃を仕掛けてくるからだ。
よって敵はいつもこの日に攻撃をしかけてくる相手への準備を十分にした上で、
この北堡塁で待っている。
敵にすれば不思議でしかたがないだろうが、
もちろん味方にとっても不思議で仕方がなく、
大本営から使者がそのことをただしに行くと、
参謀はこう返答したという。

理由は三つ。
一つ。火薬の準備のため。火薬は一ヶ月経つと風邪をひき効力が薄れる。
二つ。南山を攻撃して成功した日が二十六日で縁起がよい。
三つ。二十六という数字は割り切れる。つまり要塞を割ることができる。

とても大勢の命を預かり国家の命運を賭けて戦う作戦を考える参謀とは思えない。
これじゃあ兵も死ぬだろう。
参謀というより占い師だ。


うーん、他にもいろいろ第三軍について腹の立つことはあるんだけども、
終わりがないのでとりあえず書くのはやめる。
日本人ならぜひ「坂の上の雲」を読まれたし。

しかし同じ日本人に対してあんまりこういう非難をしたくはないのだけども、
この場に立つとどうもやりきれないのだ。
ここはそういうやりとりの行われた場所。
何も知らないで前線で戦って死んでいった日本人たちの、
この行き所のない無念はどこに行く。




と、北堡塁の青い青い空を見上げて身震いす。







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| T U | 旅から | 12:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
中国見聞録 〜坂上雲 東鶏冠山にて啼く

旅順についに訪問する。
ここ旅順は現在でも軍港として存在しているために、
少し前までは立入禁止区域だったのだが、
ようやく解放され、かつての史蹟なども観光地化され、
日本人の私が中に入り見分することが出来るようになった。
その目玉の1つがこの東鶏冠山の北堡塁だ。


(東鶏冠山景区の入口)


(当時はこのような要塞群の重要拠点だった)


(その中でも最も頑強に日本人をはねかえした北堡塁・・)


「旅順を早期に陥落させなければ日本が滅びる」

と参謀本部ヒゲ次長の長岡外史の口癖だったというが、
 → 「旅順のハヤブサ」
この旅順はそれほど戦略的に重要な敵の拠点だった。

また、すでに完璧に出来上がったロシア大要塞堡塁群に対して、
日本の第三軍が攻勢をかけた挙げ句に、
6万人の死傷を出したということでも有名な場所であり、
そしてその旅順攻撃を指揮した第三軍の乃木希典大将と伊地知参謀の
因循固陋、無能さでも有名である。
以上も以下も「坂の上の雲」によれば。

「要塞戦は坑道を掘り進め地下から爆破をして陥落させる」

という理論があり、
その「バーボンの原則」というのが常識らしいのだが、
ここの第三軍の参謀は砲科出身であるせいか、

「要塞は大砲でつぶす、攻撃は最大の防御」

という方針でいた。
しかし要塞とは、
そのへんの大砲をいくらぶっ放したところで崩壊しないようにできているのだ。
いや、近代要塞とはそういうものなのだ。
当時、すでにヨーロッパでは実例もたくさんあった。
写真をみてもわかるようにこの重厚なコンクリートの壁は、
ちょっとはそっとでは崩壊しないだろう。
事実、砲弾ではこの重厚構造物は崩壊しなかった。


(分厚いベトンで覆われた要塞の中)


(ちょっとやそっとじゃビクともしない感じ)


(無数の砲弾の当たった跡)

さらにここの参謀は、

「大和魂は鉄をも溶かす」

という驚くべき思想の最初の信奉者だった。
大和魂は鉄を溶かすという精神主義は、
死地に飛び込んでいく実施部隊とその指揮官にこそ、
士気という面で必要な心構えだと思うが、
司令部の人間がその理論で作戦を考えたらどうなるだろう。
神風特攻隊の原型のようなことがここで起こった。
当然のことながら大和魂は鉄を溶かさないのだ。
鉄を溶かすのは、化学反応によって発生した熱なのだ。

そして、無為無策で肉弾突撃させた結果、
国民の飢餓の上にやっと成立した虎の子の軍隊(若者たち)を、
あまりに多くの貴重な日本人を、
ロシアの要塞の餌食にさせてしまった。
嗚呼畜生、首しめてやりたい。

そういう同じことを何度も繰り返し、
大本営でも長岡外史は「無益の殺生」と嘆き、
明治天皇もクレームをつけたというから、
余程の人が無駄に死なされたのだ。


(多くの日本人を殺傷した土塁と機関銃)


この東鶏冠山は、日本人の血でできている。
しかし同時に、今の日本や秋田や自分も、
日本をロシアの侵略から守るためにここで命を散らしていってくれた、
幾万の日本人の血でできているのかもしれない。
ここから現実の私たちの間に断絶はないのだ。

ここに立ってみて、啼く。





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| T U | 旅から | 10:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
中国見聞録 〜坂上雲 猿まねの国と呼ばれて

当時の日本というのは、
今の豊かな日本からは想像もできないほど悲惨だった。

この日露戦争からほんの30年ほど前までは、
チョンマゲを代表とする世界中のどの民族ももっていない
奇妙な独特の民俗を持っている個性的な民族だったのだが、
それがたった30年で、まがりなりにも憲法を持ち、国会を持ち、
法律を持ち、陸海軍を持っている。
この驚くべき民族的荒技はすべて

「ロシアへの恐怖」

が原動力になっているといってもいいと思う。
これはすべての動物が持っている本能。
すべて前述の征服される恐怖からきている防衛本能だ。
しかし、この生き残るための必死の民族的運動は西洋諸国からみると、

「猿まね」

と笑われた。


(ロシア帝国の大ボスであるニコライ2世)

特にロシア皇帝のニコライ2世は公然と日本人をマカーキ(猿)と呼んだ。
それでも日本人は侵略の恐怖から逃れるために、渾身で西洋化したのだ。
古代ローマの歴史家タキトゥスは、
ローマ人に征服されつつあるブリタニア人(古代イギリス原住民)が、
敵であるローマの文化文明を積極的に受容している様を、
文明化ではなく奴隷化だと笑ったが彼がこの時代に生きていれば、
やはり日本人をこの原住民を笑うように笑ったんだろう。

しかし、日本人は西洋文明を受容するのに必死だった。
単なる好奇心からではない。
これほどの急激な生活様式の転換はそんな生やさしいことではできない。
恐るべし恐怖心からなのだ。
教科書に書いてあるようなニュアンスではないだろう。

また、同じアジアの隣人である中国や朝鮮からは、
この悲壮な決意による欧化を裏切りもの呼ばわりされて軽蔑された。
特に中国は、世界の中華と思っている。
中華文明こそ世界で最高だと伝統的に思っているのは中国(清)で、
日本の懸命な欧化に対して軽蔑した。
そして、特に大中華文明の最も従順な信奉者であり続けようとする朝鮮は、
「倭人はおのれの風俗を捨てた。唾棄すべきことだ」と嫌悪し、
着ている服が日本古来のものでなくなったというだけの理由で、
朝鮮に行った正式な日本の使節団が追い返されたこともあるという。

というようにこの時代、
この非力でか弱い島国の人々はどこの国からも相手にされなかった。


(ロシアに立ち向かわざるをえない猿であるところの日本)


しかし、それでもめげずに日本人は欧化をすすめ、大まじめに富国強兵につとめた。
日露戦争直前10年は、歳出に締める軍事費がなんと55%なのだ。
税金のほとんどが戦争準備に使われている。
この数字を見たときに、本当にこういうことがありえるのかととても驚いたが、
事実、国民は飢餓の苦しみを一国民にいたるまで負ったのだ。
「龍馬伝」で福山雅治は「海軍をつくるぜよ!」と爽やかに言っているが、
実際に海軍は全国民の(しかも国民になったばかりの)飢餓の上に成立したのだ。


(貧しくとも前向きな国民)


(当時の日本人の若者たち)

しかし、そんな暮らしの中でも反戦デモは一切おこらなかった。
世論はロシアへの恐怖と憎しみですでに醸成され、
民衆はむしろ早期開戦派で、
それを抑えるのに必死だったのが伊藤博文を代表とする政府だったのだ。
それも、

「現実的に勝てる見込みがほとんどない」

というため息がでるほどまともな理由で。
実際に10倍の国力と10倍の陸海軍を相手は持っているのだ。
こんな状態で世界が注目する中、
この国はここ旅順で強大なロシア帝国を相手に戦わなければならない。
こんな可哀想な生まれたての国があるだろうか。





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| T U | 旅から | 16:27 | comments(0) | trackbacks(1) |
中国見聞録 〜坂上雲 ロシア帝国の恐怖

日露戦争における一大重要拠点だった旅順。
ここに幾万の日本人が砲火を浴びて死んでいる。
旅順の土は日本人でできているのだ。

20世紀初頭、そこにロシア帝国は強大な要塞をつくった。
ロシアは当時、思いっきり帝国主義でとても食欲旺盛で野蛮だったが、
そのロシアは近代国家としては決して老舗ではなかった。
長い長い間、モンゴル騎馬民族の過酷な統治にあえぎ、
ロシア人はほとんど奴隷のようにルネサンス期までを過ごした。
西欧列強とはいえども16世紀頃までは日本とさほど変わらない国だったのだ。
いや日本以下だったと言えるかもしれない。
それがようやくタタールの軛を脱し、専制国家としてデビューし、
17世紀に入ってピョートル大帝を生んだ。


(ピョートル大帝)

この皇帝を持ったことがロシア帝国にとっては幸運だった。
実践家の彼は強い近代国家としてのロシアを目指す。
西欧の技術を学ぶために使節団を結成し、
皇帝でありながら偽名を使ってオランダの造船工場で、
40日間も工員として働いていたこともあったという。
そうした彼の指導力によって近代国家となった帝政ロシアは、
バルト海を手に入れ、その他近隣諸国を侵し、
ピョ−トル以来の南下政策によってどんどん日本に向かって膨張してきた。
このロシアの侵略的南下にすべての日本人が本能的に恐怖したのだ。

我々は前の大戦でロシア(ソ連)を含む連合国によって敗戦した。
しかし、幸なことに戦後の占領政策を主に担当したのがアメリカだったので、
現在のような僥倖を甘受することができている。
これがソ連だったら今日の日本は絶対にない。
まだスターリンがイケイケだったのだ。
しかし、これが日露戦争当時のロシアだったらもっと悲惨だったに違いない。

日本はロシア帝国の属国になる運命だった。
帝政ロシアは、フィンランドを征服した時と同様に、
壮大な日本総督官邸を東京に建設し、
太平洋に不凍港を持ちたかったという積年の願望を果たすために、
横須賀と佐世保に一大軍港を築くに違いない。
明治維新の果実ともいうべきせっかく制定された憲法は停止され、
国会議事堂を高等秘密警察の本部にし、、
さらに幕末以来食指を伸ばしていた対馬に得意の大要塞を築き、
そこに政治犯の監獄をつくり銃殺刑の限りを尽くすだろう。
ロシアの宗教であるギリシャ正教の壮麗な大聖堂を日比谷あたりに造り、
この異教の宗教を日本人に強制しロシア式の専制を日本人にも強いるだろう。


(世界中にある荘厳なロシア正教の聖堂)

アルメニアやカフカス、ポーランドのように、
壮齢の男子はすべてシベリアか新たな戦場に送られ、
強制労働と前線に従事させられる。

このように、ロシア帝国に吸収されることはほぼ間違いない。
事実、ワルシャワやヘルシンキやストックホルムではそのようになったのだ。
というようなことを、司馬遼太郎は確か書いている。

なんと恐ろしいことか。
このことに、すべての日本人は恐怖したのだ。
幕末から日露戦争までの日本人の行動のすべては、
このことに基づけばすべて明快に説明がつく。


(大挙して極東にやってきたロシア軍)

その恐怖はついに目と鼻の先の遼東半島まで、実際にやってきた。
そして日々、最強の要塞を造っている。
日本は、その非力なエネルギーもってこれに対抗すべく、立ち上がったのだ。






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| T U | 旅から | 13:05 | comments(1) | trackbacks(0) |
中国見聞録 〜坂上雲 旅順へ

私は司馬遼太郎の書いたものをとても好きなこともあり、
司馬遼太郎の歴史観で世界をみることにとても心地よさを感じるタイプだけど、
日本人が世界に誇れるものの一つとして「日露戦争」があると思う。
「戦争を誇れるとは何事だ!」と怒られるかもしれないが、
司馬遼太郎の言いたいことも、私が言いたいこともそういうことではないだろう。
よくわからないけども、どうしてもこればかりはそう思いたいのだ。

それを克明に記した「坂の上の雲」は、
「平家物語」や「太閤記」と並ぶ日本史上の名作であり、
地中海諸国における「オデッセイア」みたいなものだと私は信じている。



これをまだ読んでいない人は、
「日本に生まれた人」というだけで、いまだ「日本人」でないとさえ思っている。
そうとまで思っている「坂の上の雲」のメインとなる舞台のひとつが、
この大連の隣にある旅順なのだ。

この本を読んで以来ずーーーっと、

「旅順の土を抱き締めたい」

という衝動に駆られていた。
というのもかつて旅順は、日本にとって単に地名や言葉ではなかった。
日本というできたての「国家」と、
そこに住むできたての「国民」の存亡がかかった運命的な、
そういう場所だったのだ。


ということで、実はこの旅のもう一つの目的は、旅順なのだ。
しかも幸運なことに、
今回の同行者の中に年配のかなりの知識人がいて、
その方が旅順の攻囲戦について詳細にガイドしてくれた。
これほど得がたい旅の友はいない。
そしてまた信じがたいほど幸運なことに、
これまで人民解放軍の軍事施設があるために立ち入り禁止だった旅順は、
ついこないだからほぼすべてが一般公開されているとのこと。
NHKで「坂の上の雲」をドラマ化して放送していることも影響しているだろう。
今年の冬以降、日本からの観光客がここに雪崩をうつに違いない。





大連のホテルから、なんかすごくステキな感じの市街を通って、車で小一時間。
多少の気の重さを感じながらも、旅順におびき寄せられるように心地よく、赴いた。
それこそ、

「のぼってゆく坂の上の青い天に、
もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、
それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」

という感じで。
なーんてね。





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| T U | 旅から | 11:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
中国見聞録 〜大連night walk

危険極まりないのだれども、
その土地に行ったら、基本、夜は徘徊するようにしている。
それはどこに行ってもそうなのだがこの大連でもやはり同じように。



大連駅前はこんな感じなんだけどもそこはやはり中国。
一歩踏みいるとAnother worldがあります。
正直、大連の夜は私が行ったことのあるどこの街よりも怖い感じだったけども、
酔っているしまあなんとかなるだろう的ないつものノリで1人で深夜ぶらぶらと。
こういうパターンが最も悲惨な事件を招くだろう・・。

しかし、白酒でバッチリキマってしまった私を止めることが出来るのはもはや、
亡くなった祖母くらいのものだ。
要するに誰もいないということだ。
一応用心をして、
半ズボンによれよれのTシャツにサンダルという敢えて現地人のように歩く。
これで私を日本人と思うヤツらはいないだろう。
なにしろ私はかつて夜のサンフランシスコで

「ファッ○ン コリアン!」

と叫ばれて石投げられたことがあるのだ。
それくらい日本人離れしているのだが、
ん?韓国人に間違われてもだめなのか?
まあいいや。
どうせ言葉は通じない。



重厚な感じのする夜の街を歩く。
泥酔した体に夜風が気持ちいい。
夏のにおいだ。
たぶん海が近いんだろう。
しかし路地裏でもかなりロシア人がfrankyに歩いているね。
ここに住んでるんだろうな。





麦当労(マクドナルド)の看板をみるとなんか落ち着くのは、
私がそっち側の人間なんだからだろうな。









どれだけ歩いただろうか。
泥酔していたせいか夢心地でふらついた。



気がつくとまたもとの駅前付近に。
ここではこのような屋台がいくつも立ち並び、
料理人がタバコを吸いながらだらーーっと座っているが、
ひとたび注文をしようものならキリッと目つきが変わり、
いろんな料理をserveしてくれる。



とてもいい感じ。
Asiaだぜ。
これを感じるために危険を冒して現地人に扮してうろついているのです。





炒飯をorderしてみました。
完全に日本人だとバレたたけど・・。
その前にTシャツに「ト○パンツ2.0」と書いてある・・。
よく考えれば日本語じゃないか・・。

さすがに炒飯のレベルはとても高い。
たしか5元くらいだったかと思うけどさすがに本場のヤツは違いますね。
そしてまた、腹ごなしをかねて歩く。



そしてやはりアズスーンアズ炸裂!
なんとなく引かれるような感じでこの拉麺館に。





閉店間際だったのかな?
なんかみんなで掃除してました。
とてもあっさりしたミニサイズの野菜系の拉麺を頂こうと思い、
様々な言語を駆使して注文を試みる。
なんとなく意思が通じたと思って注文したらまったく想像と違ったものに・・。





でもumai。
けっこうあっさりしていました。
これが中国4千年の底力。



いやー歩いた歩いた。
そして食った食った。


この歴史のクロスロードの片隅の暗闇に1人で立っているとき、
たしかに私は中国人でも韓国人でもなく、
しかし日本人というより秋田人というより、
Asia人だった。






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| T U | 旅から | 14:33 | comments(1) | trackbacks(0) |
中国見聞録 〜大連の友人

大連では、現地の経営者と懇親を深める機会がありました。
しかし中国語のできない私のこと、
どうやって懇親を深めることができるのか、
と思っていたらそこはやはり酒でした。
佳酒と友情は万国共通ですね。

この典型的な大連に住む中国人だという彼はかなり気持ちがいい。
私たちのためにかなり上等な酒を用意しておいてくれ、
一行の誰かが、もう一瓶飲みたいと冗談を言うと、
すぐさまその入手困難な酒を買ってくる。
タバコが欲しいと言えば、ものすごく高価なタバコをごそっとすぐに用意する。


 超高級な中国タバコ「中華」

中国人というと、

「こすずるい貧しいパクリ屋」

みたいな印象を我々日本人は、
日本のマスコミによって持たされているのかもしれないが、
私が出会った生の中国人はそうではなかった。
客に対してすべてを賭けてもてなすというその姿勢。
たぶん関羽もこんな感じだったんだろう。



この彼とかなり気持ちよく飲んだ。
中国での酒はウワサには聞いていたが、
白酒という主にこうりゃんを原料として造った強い蒸留酒を杯に注ぎあい、
それを「乾杯」と言いながら文字の如く完全に飲み干すというもの。



しかも、最初の一杯だけではなく、
話題が一度終わるごとにカパンカパンと杯を空けなければならないのだ。
この旅中、この作法によって酒を呑むことになってしまったが、
私は白酒が肌に合うのか、何も苦にはならなかった。
日頃の鍛錬も多少は効を奏したのかもしれないが。
しかしながらこの日はとても酔ったのだ。
酒がうまかったのはもちろんだけど、
いい友人に巡りあったことが酔いを心地よくすすめたのだと思う。

ただし、この彼とちょっとしたことでもめてしまった。
勘定の一部を一行の1名が酒に酔って払ってしまったのだ。
この高級店でとびきり高級な酒と肴とタバコを愉しんでいるのだから、
そうとうな金額になるだろうことを想像することは楽勝にできる。
しかしここではhostがguestにすべておごるという習慣がまだ濃厚にあるらしく、
我々のような見知らぬ東の海から来た人々に対してもそれは適用されるらしい。

「なんぼなんでも悪いから一部だけでも・・」

とこちらの社交界では当然の礼儀として支払ってしまったことに対して、
面子を潰されたと本気で怒っているところを見ていて、
失礼ながら私はかなり心地が良かった。

「これが中国人なんだなあ」

と。
私も気のいい先輩のところに遊びに行くに時は

「財布持ってくんなよ!」

と言っていただくことがあるが源流はここだったか。
これが欧米だと、
たとえグリーンツーリズムだとしてもキチッとgiveに対してtakeするだろう。
いや、それもいいのだ。
どちらが良いとか悪いとかではない。
そういうジャッジをする資格は私にはないし、とりあえずは考える必要もない。
ただ単に心地いいと感じたということだけが、大切なことなのだ。
それがこの旅のテーマである。



とても忘れられない夜になりましたが、
意外なことに今回、その私たちをつないだのがお互いのつたない英語でした。
同じアジアの隣人と、
中国語でも日本語でも韓国語でもなくイギリスの言葉で意思疎通しなければならない。
どうも世界はそうできているらしい。


また、この友人に帰国してから何度メールを出してもいっこうに返信がないのは、
おそらく彼のパソコンが故障しているからだと絶対に思いたい。








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| T U | 旅から | 17:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
中国見聞録 〜大連citywalk

ホテルでの朝食が実にうまかった。
この旅を通して一貫していたことがメシがうまかったこと。
さすが深く長い歴史のある国です。
とても食べ物がumai!


(RAMADA Hotel の朝食)

ということで、
初日の朝食からついつい3セットほどもやっつけてしまったので、
ここはホテルの周辺をうろつき歩いてみることに。

大連を歩いてみてまず思ったことは、車が恐怖だということ。
これはどのガイドブックにも書いてあることなので、
警戒はしてましたが、まさかこれほどまでとは・・。
正直言って、何度、殺されるところだったかわかりません。


(とても理解が困難な交通ルール・・)


(この警官はそこに立っていてなにしてるんだろうか・・)


(事実、犠牲者は多いらしい・・・)


中国というと、
路上は糞尿にまみれて異様な腐敗臭が漂う街並みという
非常に古典的なものを想像していましたが、
ここはとてもきれいですね。
失礼しました。
もっともそういうエリアもあるんでしょうけども。
私は運良くそんなところには行く機会がありませんでした。


(街はとてもきれいでおどろきました)


(おぞましい臭気もせずにとても快適にwalk!)

今回はあまり市内観光をする時間がなかったのだけども、
それでも大連に関していろいろ知ることができました。
そして大連料理に毎日舌鼓。
滞在中に痛風発作がでないか心配でした。


(この中から今夜の鮮魚をチョイスするのです)

大連料理とはいわゆるseafoodですね。
こんなに海に恵まれているんだからそりゃそうだ。
ということで、見たことある魚がたくさん陳列。
日本の海と近いので住んでいる魚もほぼ同じなんだろう。
昔、ここに来た日本人はその点は住みやすかっただろうなあ。
カニやウニ、ナマコなどはとてもおいしかったし、魚も味付けがとてもステキだった。
しかもどの店も。


(やはりこのように個室の円卓でいただきます)

いやーしかし、ほんといいとこですよここ。
海外進出するならまず大連ですな。
弊社スタッフのT氏も大よろこびするに違いない。




そして、朝も爽やか。
いやーT林氏がとてもうらやましい。






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中国見聞録 〜爽やかな風が吹く大連

実は生まれて初めて中国の地を踏んだのが香港だった。
しかし、単なるトランジットですぐにマカオに向かったので、
それは中国の経験としてはカウントされないだろう。
それから3年。
ついに私はこの黄海にグワっと突き下ろしている遼東半島の地を踏んだのだ。


(遼東半島の先っちょにある大連市)

この大連は現在、ものすごい経済躍進を続けている地域で、域内人口350万人。
GDP伸び率は15%(09年)と中国の平均8.7%を大きく上回り、
上海さえも上回る。
さらに一人あたりGDPは1万ドルを超え、すでに北京をこえているという。



まさに今、中国の経済成長を象徴するような都市だ。
上海が華東地域の外港的役割をしているんだとすれば、
ここ大連は天津などとともに華北、東北などのそれを果たしているんじゃないかと
思ったりするんだけどもどうなんだろう。

まあそれでもこのあたりは、
中国の歴史的視点から見るとやはり蛮地だろう。
漢の頃は楽浪郡や帯方郡とかいう植民地扱いだったし、
そもそも長城の外だった。
中華思想的な見方をすれば、
この地はそもそもそんたにアデさいでなかったのだ。

中国4千年の歴史というが、
ここが都市が形成されて脚光を浴びるのは始皇帝や関羽の時代ではなく、
なんと19世紀なのだ。
それも終わりの頃に、清朝のために砲台がおかれ、
都市としての形ができ、軍事的に脚光を浴びるように。
日清戦争後に日本が占領、
その後、三国干渉でロシア帝国が占領、
さらにその後の日露戦争によって再び日本へ。
しかし第2次世界大戦後にソ連へ、
そして現在は中華人民共和国が領有しているという
極東の国々の帝国主義的な食欲によって持ち主がコロコロと変遷してきてた。
歴史に登場してからはまだ日が浅いが、その後は現在の経済成長のように、
凄まじい勢いで性急に歴史を積み重ねていったのだ。

現在の都市の原型ができたのは、
日本や朝鮮を占領しようとしていた帝政ロシアが、
三国干渉によってムリヤリ租借してからだ。
そのために、この半島の先端である旅順市が要塞化され大艦隊がおかれ、
そこに兵員物資を補給する目的でロシアによって鉄道が敷かれた。
その際、世界の憧れであり、
特にロシアにおいては特別な街だったパリを模して都市が造られたという。


(ロシア人がパリをモデルにして造った中山広場)


日露戦争ではまさしく戦場になった。
その大要塞によって、多くの日本人の血が吸われることになるのだが、
そのおかげもありその後は日本がそれを租借することに。
そして日本から見ても大連は中国の中でも最も濃厚な関わりを持つ都市となり、
多くの日本人がここに来た。
そして多くの日本人の若者がここから前線へ送り込まれ、骨となった。

いくつかの戦争が終わり、帝国という名の肉食獣どもは死滅したが、
ここはそれらの死臭いまだ漂う都市なのだ。
事実、ロシア風の建物と日本が建てたという建造物が現在でも散在している。


(上野駅を模して造られたという大連駅舎)

この歴史事実を知らない人からみると、
単にレトロでステキな建物で感動するのかもしれないが、
上野駅などをコピーして造ったといわれる大連駅舎などを見ていると、
なんとも言えない感動がゾワッとおこってくる。
なぜならそれは、自分もその帝国の系譜である
日本という国で生まれた日本人であるからに他ならない。

かつての日本の死骸。
それが残っている。
日本ではなく中国において。
それはロシア人においても同じ感情なのだろう。
観光なのかビジネスなのか居住しているのか、
ロシア人も大連では非常に多く見かけることができた。

しかしそんな風にこの街をみてしまうのは、
所詮、私のような知ったかぶりでしみったれの田舎者だけなのかもしれない。
というのも今こうして、
歴史的個性を保ちながら懸命に今風に発展成長しているところをみると、
過去は完全に過去になっているんだなと思ってしまうのだ。
それくらいここは普通に都会なのだ。
いや大都会なのだ。
私のような日本という小さな国の辺境にある、
さらに小さな存在感の秋田というところから来た者からみれば、
輝くばかりの大都会なのだ。
多くの人々には当然のことなのだろうけども、
明るく堂々とここの人々は街を歩いている。




大連は爽やかな風が吹く街なのだ。
私はそんなことすらも、ここに来るまでわからなかった。







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